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『仝 selected lectures 2009-2014』
この災厄と恐慌と蜂起の日々に、佐々木中は動揺も沈みもしなかった。『アナレクタ・シリーズ』の四冊から筆者が単独で行った講演のみ再編集文庫化し、新たに二〇一四年秋に行われた講演「失敗せる革命よ知と熱狂を撒け」を付した、文字通りのヴェリー・ベスト。
目次
自己の死をいかに死ぬか
歓び、われわれが居ない世界の――〈大学の夜〉の記録
「夜の底で耳を澄ます」(2011年2月6日、京都Mediashopにおける講演)を要約する十二の基本的な註記
砕かれた大地に、ひとつの場処を――紀伊國屋じんぶん大賞2010受賞記念講演「前夜はいま」の記録
屈辱ではなく恥辱を――革命と民主制について――2011年4月28日、地下大学での発言
変革へ、この熾烈なる無力を――2011年11月17日、福岡講演によるテクスト
「われらの正気を生き延びる道を教えよ」(2011年12月8日、京都精華大学における講演)を要約する二十一の基本的な註記
失敗せる革命よ知と熱狂を撒け――京都精華大学人文学部再編記念講演会「人文学の逆襲」の記録
跋
Writing is dancing. Dancing is writing.
テクストは文書であることを必要としない。「テクストは書かれたもの(エクリ)であることを必要としない」と克明に述べつつ、彼[ピエール・ルジャンドル]はさまざまな文化の口承、ダンスやその振付をあげている。 だから彼は「黒人の偉大なるダンス」はそのままテクストの操作であり、ゆえに彼らのダンスはそのまま法的・哲学的・規範的に思考することそのものなのである、と事も無げに述べることができたのだ。 いわく、「ダンスはまた、それによって主体の身体が〈法〉を反響するものであって、このテクスチュアリティの外には書き込まれることはありえない」。 そう、われわれはすでに見てきた、われわれ自身がイメージであり、テクストであり、エンブレムなのだと。ならば、ダンスはそれを習得し、鍛練し、練習し、揺り動かし、舞い、跳躍させ、回転させ、軋ませ─つまり「思考する」ことそのもの以外の何かではない。だから、その振付を案出し「新しいダンス」を編み出すことも含めて、ダンスは哲学的あるいは法的なテクストを読み、註釈し、書き換え、新しい概念を産み出すこととなんら変わるところがない。だから、「ダンスを根本的な政治的操作の外にあるものとみなすのをやめなくてはならない」。 ダンスは「肉体的」で「感覚的」で「美的」なだけのものではない。ダンスを論ずるとなると、どういうわけか美術史家も人類学者も「宇宙との鼓動に一体となる」「原始的な身体感覚」などということを喋々しがちだ。だが、ルジャンドルのダンス論にあっては、イメージも言語も「越えた」原初的(プリミティヴ)な身体感覚などというものを拠り所にするような思路は、全く問題になっていない。彼は言う、「ダンスの身体が美しいのは、それが製造されたものだからである」 と。だからこそ、それはひとつの社会の、ひとつの文化=崇拝のテクスト性のなかで法的で政治的な力を持つことになる。いわく、「諸身体はシステムのエンブレムになる、そしてそこで信仰が組み立てられるのだ。ダンスは政治的である。なぜならダンスは通常の振る舞いの取り扱いを提起するからであり、主体を閃光のもとにはっきりと見せる(eclater)からだ」 かくして、「〈法〉と一緒に、ひとはダンスしにやって来るのだ」。 〈法〉との、〈テクスト〉との熱狂的なダンス。テクストとは、そしてテクストの営みとは、すべてこれ以外の何ものでもない。逆に言えば、われわれの読みまた書くこともまた「熱狂的なダンス」なのだと、いまさら繰り返す必要があるだろうか。歌、音楽、詩、絵画、つまり芸術。これらはすべて以上のような意味でテクストであり、政治的ダンスである。われわれは既に十分語った。旗なしに、ダンスなしに、歌なしに、エンブレムなしに、音楽なしに、イメージの上演なしに、社会が統治されることなどないと。次の重要な論点に移る前に、念を押しておく。ルジャンドルはここでも極めて冷徹である。「ダンスと軍楽隊による大衆の祝祭、これはまたファシストのものでもあるのだ」 と指摘し、「共産主義の儀礼性の研究の欠落」 を難じる彼は、このような非文書的なテクスト性による儀礼的な統治について、楽観的なことを一言も口にしていない。これは要するに、独裁者の儀礼の「マス・ゲーム」でもあるのだから。ダンス、音楽、詩と言っただけで、何か肯定的なものが語られていると思うのはお門違いである。彼は、まさにダンスを挙措の調教の水準に位置づけ、「古代のダンスの道徳の上に、ダンサーではない人々においても、産業への服従の一部分は構築されている。つまり、工場奴隷は姿勢と所作の合法性から利益を得ているということだ」 とまで言ってのけるのだから。つまり、「工場奴隷」は、規則正しく時間割どおりに上司の言うとおりに「踊る」ことを「調教」され「強制」され、その服従の代金として僅かな賃金を得ているのだ。言ってみれば、絵画、ダンス、音楽、歌、エンブレム、バッジの美しい演出が、すなわち身体的な調教としての政治的な操作が存在することは厭でも否み難く避けられない事態なのであり、むしろそこから始まるのだ。(拙著『定本 夜戦と永遠』(河出文庫)、東京大学博士論文、第五章第四十四節より。)
Awful misology, A most terrible disease.
この直接行動の時代にあって何としても回避しなくてはならないこと、それこそ本稿でもすでに述べた、カントの言う「ミゾロギー」(学知憎悪)だ。カントは言った、「理性の使用に長けた者」こそが「ミゾロギー」に陥ると。大学、専門家、知識人の堕落の極みにあってなお、知と理性に代わるものはない。イタリアの詩人パゾリーニは、警官隊と対峙する学生を揶揄し、学生はブルジョワでありエリートであって、警官になる他なかった貧しいプロレタリアを支持すると言った。しかしこのようなアイロニーは過ちであり、ミゾロギーである。パゾリーニに皮肉を言うとすれば、本文にあるビスマルクの言葉「学生プロレタリア」を用いるのが適当だろう。現在、学生は貸与奨学金や不当な学費に苦しみ、アルバイトという非正規労働の恰好の供給者となっている。学生も労働者(プロレタリア)も同じく、つまり「われわれ」は同じく、ひとしなみに新自由主義的な「収奪」の対象である。われわれは「学生プロレタリア」である。さて、学生プロレタリア、すなわち労働者と学生と知識人と藝術家と……等々のあいだの連帯を、あるいはストリートとサブカルチャー……等々のあいだの連帯を、妨害し分断しようとする者こそ「『知的でない』ことを売りにする悪しき知識人」であり、「知識人批判を売りにする知識人」である。彼らはミゾロギーに取り憑かれていて、そうである自分にすら気づけない。彼らは恣意的に分断と連帯を選びとったあと、それを後から知的に根拠づけることはできる。だが分断や連帯かを「判断する」ための知的な根拠づけを必要としない。ゆえにたやすくダブル・スタンダードに陥る。現に「上級学者」であるか、さもなければ「上級学者」に媚びへつらう。彼らのもたらすのは、党派争いと屈従と惨禍である。
(2月近刊、拙著『仝 selected lectures 2009-2014』(河出文庫)より)
早稲田大学講義レポート要項。
講義を受けて考えたことを2000字程度にまとめて提出すること。1月29日23時〆切、時間厳守。提出先はシラバスにある通りreport(at)atarusasaki.net。ゼミのほうは話したとおり、講義中のレポートの補足があれば上記のメールアドレスに自由に。また、某ゼミとの合同打ち上げがあるので詳細が不明な学生はやはり上記のメールアドレスに問い合わせること。